広島聖文舎の通信「広島聖文舎便り」には毎月、辻 学氏(広島大学教授、新約聖書学)による「研究室の書棚からおすすめの1冊」が載せられています。その内容をここでもご紹介します。
<研究室の書棚からお薦めの1冊(51)>
栗林輝夫『日本で神学する』(栗林輝夫セレクション1、新教出版社、2017年5月、3600円+税)
『荊冠の神学』(1991年)、『日本民話の神学』(1997年)、『現代神学の最前線』(2004年)などの著作で広く知られる神学者、栗林輝夫氏が亡くなって2年が経ちます。このたび、栗林氏が遺した多数の文章から18編がまとめられ、「栗林輝夫セレクション」として刊行されました。本書はその第1巻で、11の論考と、『荊冠の神学』韓国語版への序文が収められています。すでに他所で紹介文を書きましたが、もうお買い上げになったでしょうか。
第Ⅰ部「解放神学と日本」は栗林神学の「視座」を示しています。部落解放の問題を焦点とした「荊冠の神学」は、ラテンアメリカの解放神学(と韓国の「民衆神学」)を日本の文脈において展開したものという性格をもっていますが、解放神学の先駆者であるグスタボ・グティエレスを中心に論じた第1章「解放神学の選択・神は貧しい者を偏愛する」にはそのことがよく表れています。民衆の経験から出発して、「神は貧しい者の苦しみにおいて顕れる」(45頁)と言うグティエレスの理解は、間違いなく栗林神学の基本的姿勢にもなっています。続く第2章では、足尾鉱毒事件の闘いに生涯を捧げた田中正造、そして第3章では、黒人解放運動の先駆者にしてカリスマ的指導者であったマルコムXと、部落解放運動の創始者である西光万吉の生涯と思想の変遷を、解放神学および民衆神学の視点からたどっています。これらの論考には、現在の神学が「教会の学」に留まり、「教会の外の民衆的世界の事件に、あまりに無関心になってしまった」(98頁)という栗林氏の神学批判、そしてどの視座で神学をすべきなのかという問題提起が込められています。
第Ⅱ部は、栗林神学の手法を示す3本の論文を収録しています。その中でも、日本の聖書学のあり方を問い直す第6章「『帝国論』におけるイエスとパウロ」、そして、内向き志向が強く、社会的責任に向き合う姿勢が弱い日本のキリスト教を正面から批判し、「課題志向」な神学を展開すべきだと主張する第7章「日本で神学する」は必読だと思います。
第Ⅲ部「環境と技術の神学」に収められた4本の論考は、栗林氏が最期まで取り組み続けた原発問題に関する実践の記録です。原発事故が招いた危機的状況の中で神学するとはどういうことかを、文字通り命を削りながら著者は示そうとしています。
日本の「本物の」神学者、そして私自身にとっては兄のような友人でもあった栗林輝夫氏を失った痛みと悲しみは消えることがありませんが、せめてその大事な「遺産」をきちんと受け継いでいきたいと、本書を読んで思いました。(辻 学=広島大学教授、新約学)
(本稿は、『本のひろば』2017年9月号掲載の拙稿を、新教出版社の了解を得て書き直したものです。)
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